玄関で靴を履いているおばあちゃんの

里子さんの所に路夫君がやってきました。

路夫「おばあちゃん神社にお参りに行くの?」

里子「そうよ。神社に行ってぐるっと散歩して帰って来るつもり」

路夫「いっしょに行っていい?」

里子「へぇ、珍しいこともあるもんだね。路夫が神社に行くなんて」

路夫「ちょっとお願いしたい事があってね」

神社についてなにやら真剣にお祈りする路夫。里子さんが尋ねました。

里子「路夫はなにをあんなに一生懸命お祈りしてたんだい?」

路夫「ちょっと・・内緒。話しにくいことなんだ・・ところでこの後お寺にも行く?」

里子「行ってもいいけど。だけど路夫、神様や仏様を拝むのは何のためだい?」

路夫「それは・・ともかく何とかしたいんだよ・・・。」

里子「何があって一生懸命お祈りしてるのか聞かないことにするけど。でも路夫、駄目なことはどんなに他の神様にお願いしても帳消しになったり、許してもらえたりはしないものだよ。」

路夫「そうかぁ・・・・」

里子「何があったかはお天道様が知っている。そして自分が一番知っているでしょ。そこをだまして他の神様にお願いしてもだめなものなんだよ。」

里子「それに神社はお願い事をするところじゃないんだよ。日ごろの幸せを感謝してお礼を言いに行くところなんだよ。今日は『路夫がいつもいい子でありがとうございます』って神様にお礼をしたのよ」

路夫「そうなんだ。わかったよ。実はねおばあちゃん・・」

里子「えー!?」

さてこんな時論語では何ていうでしょうか。

罪を天に獲れば、禱る所無きなり。   

         八佾第三

 

解説

 『困ったときの神頼み』っ聞いたことあるでしょ。一生懸命頑張ってあとは神様にお願いします。というのもあるけど、自分ではろくろく努力も何もしないでともかく神様にお願いするとか、もっと悪いのは失敗したり、悪いことをした事を無いことにしてもらおうと思う気持ちで神社やお寺に行ってお祈りする。思い当たる人もいるのでは?

 でも、どんなにお願いしても、悪いことや失敗したことは隠したり、無しにする事はできません。まず、元々の間違いを正さないと問題の解決にはなりません。こんな言葉があるのをしっていますか。

 『天知る、地知る、人知る。我知る。』

あなたの行いは全てお見通し、そして何より自分が一番知っているはず。他のどんな神様にお願いしてもそれは無駄というものです。